38度9分。 ピピピ、と無機質な音が静かな部屋に響いて、僕は表示された数字を心の中で読み上げた。平熱が低い自分だから、倒れていてもおかしくはない体温だった。 ああ頭がぼんやりする。卒倒してしまう前に暖かい格好をしてタオルの準備をしなきゃ、そう思って立ち上がるとぐらりと視界が揺らいだ。焦点が定まらずテーブルに手をつく。先ほどの体温計がぶわんとぶれ白い固まりになる。ヤバい、せめてベッドにたどり着かせてくれ。 その願いもむなしく世界が回転し虚ろの底へ落ちゆく刹那、意識の彼方に玄関ベルの音を聞いた気がした。 覚醒は唐突だった。 ばち、と音がしそうなほどの勢いで瞼を持ち上げる。正面に見えたのは意識を手放す前に見た台所の薄暗い天井ではなく、自室を照らすまっしろな明かり。眩しさに目を細めるとベッドの脇から慣れ親しんだ声がした。 「あ、起きたかい?それとも起こしちゃったかな」 濡れタオルを絞る音が聞こえる。 本当は布団を飛ばす勢いで起き上がりたいくらい驚いたのだが、倦怠感がひどく、仕方なく頭だけを声の方向に向けて返事を返す。それが情けないぐらい掠れた声で、僕は頭から布団を被ってしまいたくなった。 「いえ、目が覚めただけです。気にしないで」 「そっか。」 動かないでね。そう言って彼は僕の額に絞ったばかりのタオルを乗せる。ひやりと湿った布へ熱が吸い上げられていって気持ちがいい。 彼、ダイゴさんは僕の憧れの人だ。元サイユウリーグチャンピオンという肩書きを背負うとても強くて輝いているひと。今はチャンピオンを引退してどこか知らないところをふらふら旅していると聞いていた。居場所を知る人はほとんどいない、その彼が目の前にいる。無理をして手を伸ばせば触れられる位置に。 「なんでうちに、ダイゴさんが」 ぽつり呟く。 聞こえるか聞こえないかの音量だったつもりだが、彼の耳には届いたらしい。 「うん?ええと、久しぶりに顔がみたいなあとは思ってたんだけど機会がなくて。 やっと時間がとれたと思ったら、なんだか虫の知らせみたいなのがあってね。」 「びっくりしたんだよ?センリさんに住所をたずねて来てみたらルビーくんが倒れてるんだもん」 とりあえず出来ることはやっておこうと思って、ベッドに運んで今に至るってわけさ。吸い込まれそうな赤い瞳に微笑の色を湛えて、布団の上からぽんぽんとお腹あたりを叩く。 明らかな“子供”に対する扱いに僕は少し腹を立てたが、気持ちに反してとても心地よく感じてしまったので何も言わないことにした。 「……それは、ありがとうございました。すみません迷惑かけてしまって」 「あはは、気にしなくていいよ。」 先ほどの僕と同じ言葉で返して、ダイゴさんはふと思い出したように立ち上がった。 「そうだ、お粥作ったんだ。僕普段は全然料理しないから味は良くないけど、とにかく何か食べなきゃだめだよ。勝手に台所借りてごめんね、温めなおしてくる」 一息で言い切ってばたばたと台所へ駆けていって、部屋には僕一人が残された。 下の階から音がする以外は静寂だ。 僕は天井を見ながら彼の言葉を反芻していた。僕にあいたいと思って父さんに聞いてまで、うちまできてくれたんだ、わざわざ。 心臓がぎゅうっと締め付けられるようだ。嬉しさに頬が火照って、転がりだしたくなる。まるで恋人みたいじゃないか、なんて感じ始めたところで、ダイゴさんが戻ってきた。 「お待たせ。」 手に持った器から湯気がたっている。今僕はそれを受け取ろうとしても、手に力が入らない。どうしよう。視線を逡巡させると、ダイゴさんはお粥をすくったスプーンにふうふうと何度か息を吹きかけた。まさか、と驚く暇さえなかった。 「はい、あーん。」 「――えっと、」 「ほらほら口開けて。」 「……はい。」 スプーンを口に含むと確かに、母さんが作るお粥に比べてしょっぱいし水分が少ない。だけど、この漫画みたいなシチュエーションに僕のテンションは急上昇な訳で。ダイゴさんの口を開ける仕草が妙に色っぽく見えて、僕はそちらをあまりみないようにしながらも甘えさせてもらうことにした。 数分後。 緊張が解けずお粥の味も時間の流れも脳に残らないまま、器の中は空っぽになった。ふう、と一息つくと、目の前に紙袋がいくつか並べられた。 「はいお薬。これは就寝前にも飲むやつ」 すらりとした長い指が、順番に薬を指していく。結構な量に僕は辟易した。 年頃に関係なく、薬を飲むことが好きな人間はあまりいないと思う。僕の顔色が陰ったことに気づいたのかダイゴさんがのぞき込んでくる。近い近い近い近いです。髪と髪が触れあうような距離だ。ダイゴさんの髪のリーチが大きいせいもあるが。 「ルビーくん。」 「なんでしょう」 「……お薬、嫌い?」 しばしの沈黙のあと、それが何ですか、とぶっきらぼうに返したところ、また少しの静寂が流れたのち、急にダイゴさんは耐え切れないという顔で噴き出した。 憤然として疑問を唱えると、いや、だって、などとひーひー笑ってむせかえりながら言う。いくらなんでもさすがに失礼じゃないのか。むっと眉をしかめると、ああごめんねと慌てて手をひらひら振った。 「普段ルビーくんって大人ぶってるけど、ちゃんとこうやって子供らしいところもあるんだなって」 あんただって子供っぽいくせに、とは思ったものの、言わないことにしておく。 笑いすぎて涙目になった彼は、それでも真面目そうな顔を取り繕ってちゃんと飲まなきゃ、なんて言うものだから、少しからかいたくなった。 「はいはい飲みますよ。」 「ただし、ダイゴさんが口移しで飲ませてくれるなら。」 断っておくが、僕が一方的に彼に憧れているだけで彼にその気はない。……と思う(知らないだけだけれど。まして彼はこの容姿だ、女性から人気がないわけがない)。こんな気がふれたとしか思えない発言をした当の僕さえ、ダイゴさんへの強い執着心はあくまで憧憬であって決して色恋のそれではないと信じ込んでいた。 それなのに。 「……いいよ。」 驚き呆れて戸惑い、言葉をなくしているように見えたダイゴさんがこう言ったとき、確かに僕の心臓は跳ね上がった。ばくばくと音を立てて、血の巡りが一気によくなる。頭は熱でぼーっとしているくせに、こんなときだけフル回転で現状を理解してしまうだなんて現金だ。 「目、瞑って」 「あのダイゴさん、すみません冗談で」 ぱきりと錠剤を押し出す音がする。従順に瞼はかたく閉じたものの、焦って今更な言い訳をした。ゆっくり周囲の空気が温度を持ち、息づかいが近づいてくる。 嬉しいけど、いや、そんな、 「なーんてね」 ぱち、と額を弾かれた。 一拍遅れて瞳を開くといたずらに笑うダイゴさんの顔。 ぽかんとする僕をみて彼は面白そうにけたけた笑った。 「ほら、早く自分で飲みなさい。全部飲むとこ見るまで帰らないよ」 それは大歓迎なのだが、彼に言われては飲むよりほかない。渋々苦手な粉薬の袋を破った。本当にするのかと焦ったけど、しなかったらしなかったで残念、かな……って、一体何を考えてるんだ僕は! あわてて、心の内のなにもかもを飲み干すように、刺激的な苦みを喉の奥に流し込んだ。 忘れよう、今日のことは。早く寝てしまおう。薬を飲んでから布団を口元まで被った僕は、おやすみなさいも言わずにゆっくり瞼をおろして、暗い闇の中へ落ちていった。 そのころ、少年が眠りに落ちていくのを見守っていた青年は、ほっと溜め息をついた。 「口移し、ね」 全くとんだませたお子さんで。 ――別にそれを嫌だと感じなかった自分には驚いた。途中で思いとどまれてよかったけれど。 くすりと笑って、規則正しい寝息をたてる彼の頬に優しく口付ける。あくまで掠める程度のキス。 さて、唇にしてあげるのはいつになるかな? 彼が僕に対しての感情の名称を知って、正面から僕にぶつかってくるのは。それほど遠くない未来のことに思える。 「傍からみたらバレバレらしいよ、ルビーくん。」 「本当に君って」 (そういうとこ子供) じゃあねおやすみ、と告げて子供を起こさないようそっと家をあとにする。季節が移ろいすっかり冷たくなった北からの風が、青年の口笛を掻き消した。 熱は増すばかり (もう冷めやしない) |