「マツバ」


昼夜を問わず明りのないこの部屋に、凛と澄んだ声が響いた。
彼もよく飽きずに訪ねてくるものだ。彼と僕とは生きる世界が違うというのに、それを全く意に介さず僕を親友と呼ぶ。 この僕――吸血鬼、を。

今よりは幾分か外で過ごせていたころ、僕は彼に尋ねたことがある。
吸血鬼である自分が怖くないのかと。今までに僕の正体を知った人間は、恐れ、気味悪がり、みんな僕から離れていったから。
けれど彼はただカラカラ笑って、「マツバはマツバだろう」と温かい手で僕の頭をくしゃくしゃ撫でた。 僕の持たない掌の温度、飄々として掴みどころがないけれどそばにいると感じる安心感。

(不思議な人)

人間と吸血鬼、という種の差を超えて僕の心に踏み入ってくる彼に嫌悪を覚えることはなかった。 それどころか、誰ともわけ隔てなく僕に接するその姿に、やがて僕は心惹かれていることに気付いたのだ。 この気持ちはきっと彼の抱いている“友情”の類ではない。もう少し艶のある、俗っぽく下心を含んだ感情。 間違いなく、僕はミナキくんに恋をしている。

「ミナキくん、いらっしゃい」
「そこにいるのか?暗くてよく見えないんだが……明かりは」
「ごめんね。今ちょっとろうそく切らしちゃってて」

ろうそくを切らしているというのは嘘だ。明かりがあれば、きっとミナキくんはいつものようにまっすぐ僕のところへやってくる。 そして外でみた面白いものや、ずっと彼が追い続けている美しき北風の化身についてぺらぺらと喋り出すのだろう。
けれど今、それをされては困る。もし彼が普段と変わらず、時折興奮して僕の手を握ったりしたならば、とたんに僕は耳まで赤く染まるに違いない。
恋をしている、と気づいてしまった以上、できれば彼には僕に近づいてほしくないのだ。

ここで知っておいてほしいのは、吸血鬼と一口に言っても、血であれば誰のものでもいいというような種ばかりではないということ。
僕は、皮肉なことに自分が好意を抱いた人間の血しか口にできない。そのせいで今まで幾度となく傷ついてきた。 このことを知りながらも僕を好いてくれた人間もいた。けれど最後には自分が耐えられなくなってしまい、自ら関わりを断つことも多かった。

どうか彼だけはそうなりませんように。
どうやら僕は、彼のことを思っている以上に大切にしたいらしい。ここ数カ月、何度か彼の首筋に食らいつきそうになる衝動を抑え込んだことがあった。 そのたびに、「どうした、マツバ」などと声をかけてくれるミナキくんに対して後ろめたさを感じたものだった。

(でも、そろそろ限界、なのかもしれない)

息が上がる。荒い呼吸に合わせて肩と胸が浅く上下を繰り返している。
普段なら明かりをつけずとも手に取るように様子がわかる暗い室内は、物の輪郭を失ってゆらゆら揺れた。 当たり前だ。彼への感情に気づいてからというもの、全く人間の血を口にしていない。 最悪の場合は夜のうちに外へ出て、通りすがりの誰かの血を吸うことになるが、特定の人間へ好意を抱いてしまった場合、他の人間の血はただ錆臭くぬるつく液体にしか感じられない。 渇きを満たしもしないそれで、腹を膨らますことなどできなかったのだ。

本格的に視界がぼやけ、冷たくなった体が傾ぎかけた瞬間だった。
とさ、と頭がなにかにぶつかって止まる。とくん、とくん。耳のそばで心臓が血液を全身に送り出す音が聞こえる。 何かに触れたその場所から、温かさが伝播して指の先がぴくりと動いた。

「よかった、なんとかついた」
「……ミナキ、くん、」
「体調が悪いのか?こんな暗い所でずっとひきこもってるからだぜ」

僕が体重を預けたのはミナキくんの胸だった。
いつも僕の手を握る彼の体温が、薄い布越しにそこにある。先ほどまではつま先まで冷えていたのが嘘のように、全身の血が沸騰したかのごとく体が熱くなる。 いよいよ喉の渇きはひどくなり、ひゅうひゅうと気管を通る空気の音が耳障りだ。いけない。こんなに近くにいては、体が彼の血を求めてしまう。

どん 、 突き飛ばしたミナキくんの薄い体がよろめいて尻もちをついた。何かを言いかける口が、開いて、閉じる。 ちりちりとこめかみが焼けるように痛んだ。彼の目が不安げに揺らいだような気がしたが、僕の視力は今当てにならないので定かではない。 しばらく続いた静寂を裂いたのは、ミナキくんの言葉だった。

「すまない、マツバ」

マツバの気に食わないことをしただろうか、そういう彼は平素の明朗な声ではない。語尾がほんの少し震えている。
(違うんだ)と言おうとしても、喉の奥が渇いて張り付き音にならない。彼の肩を掴もうとして、今の自分にそんな事をする資格はないと思いとどまる。
違うよ。君はいつだって正しかった。毅然とした態度で、僕が正体を明かしたときだって驚きこそしたものの、否定や拒絶の姿勢を見せることはなかった。
暗闇で生きる僕にとって、マントを翻し風を切って歩く君の姿はなんて輝かしく見えたことだろう。確かに僕は君に恋をしていた。そしてそれ以上に憧れがあったのかもしれない。
その君を、愛している君を、例によって僕が傷つけることになってしまう。

「あやまらない、で、」

なんとか必死に絞り出した声は自分でも笑ってしまうほど弱弱しくて、日の光を浴びずともこのまま死んでしまうのだろうとさえ思った。
ミナキくんの肩を掴もうとして行き場をなくしていた手がぱたりと落ちる。体の力が抜けて重力に任せて倒れこむ。彼を押し倒す形になっていた。 僕の頭はちょうど、彼の首筋あたり。襟に吹き付けられた香水のかおりが僕の鼻に届いた。

「……マツバ、いつから血を吸っていない」
「え」

不意に責め立てるように彼が声を荒げた。鉛より重くなった体は、それでも突然のことにびくりとはねた。 いつから血を吸っていないか、と問われている。数ヶ月前から、とあいまいな返事を返すと、彼はがばりと飛び起きて僕の肩を掴んで揺さぶった。
血のめぐらない頭が振り回されて、脳が転がっている気分だ。

「この馬鹿!そんなに長い間、断食状態だったのか!?それじゃ体調も崩すわけだ」
「だって」
「だっても何もないだろう!マツバがそんなに馬鹿だとは思わなかった」
「なに、それ」
「……心配した、と言っているんだ」

僕の体を揺さぶり続けていたミナキくんの手の力が緩んで、彼は頭をうなだれた。 また僕は君に心配をさせてしまったのか。いつものような笑顔を見せてくれるには、僕は君のためになにをしたらいいのだろう。 かたかたと震える指先で、そっと彼の頬に触れてみる。手袋越しでも温かい彼の手がぎゅっとそれを握りこんだ。
顔をあげてこちらをひたと見据える。今度ははっきりと彼の瞳が見えたが、普段のまっすぐな眼差しだった。僕の大好きな。
そして握りこんだ手をするり、首筋に滑らせて言った。


「私の血を飲んでくれ」


……は 、

一瞬なにを言われたかわからなかった。一拍遅れて脳が言葉の意味を理解する。 自分が好意を抱いている人間の血しか飲めないことは、彼には言っていない。きっと彼は自分の血で少しでも腹を満たせたら、と思っているのだろう。
確かにミナキくんの血を吸えば僕は元気になれる。けれど、愛している人の首筋に牙をたてる心苦しさをも僕は知っていた。 だからこそ今まで我慢をしてきた。限界が来れば彼に何も言わずこの地を去り、どこか遠いところで死ぬつもりでさえいた。 その覚悟を、当のミナキくんが壊してしまった。

後悔はしないの、とだけ聞けば、マツバを失えばそれこそ一生後悔することになる、と彼らしい返事が返ってきた。 だから僕は、彼の柔い肌を覆う布を引き裂いて、その白い首筋に牙を突き立てた。


熱い、熱い血が口の中にしみだしてくる。
愛する人の血は甘く、芳しく、喉の渇きと飢えを満たすもの。

(美味しい、)

優しくて、たまに突拍子がなくて、世話を焼くのが好きなミナキくん。僕の大好きな人。大切な人。決して傷つけたくなかった人。
その彼に僕は噛みついて、貪るように血をすすっている。ごくり、ごくりと喉を鳴らすたびになぜだか目の前が滲んだ。
涙はぼたぼたととめどなく溢れだして、ミナキくんの背を伝っていった。

僕は好きだから彼の血を吸いたくなかった。その考えは僕の死に直結している。 けれど彼は僕に自分の血を吸わせた。僕を死なせないために。


僕は今、彼に生かされている。



相互依存

(君の命を削る代わりに この身すべて君に捧ぐ)